撮る役は撮られないという当たり前
後から気付く「自分の写真が無い」ということ
写真を趣味でも日常記録でも撮っていると自然と「カメラマン役」が定着してきますよね。自分としても嬉しいことなので家族のイベントだとか結婚式だとかで軽めのカメラマンすることがあるのですが、写真整理してて後から気付くのが「自分が写っている写真ないじゃん!」ということ。
よくある話かもしれませんが、家族でも父親または母親が決まったカメラマン役だったりすると、何かの際に昔の写真必要になっても見つからないものです。子育て中もそうかもしれませんね。子どもの写真はあっても親の写真があまりないみたいな。
最近では自撮り・セルフィーが一般的になって、携帯ならインカメラが付いているしデジカメでも液晶が180度回転するのとかが人気だったりします。それでも全身写せるわけではないですから、カメラマン役の記録ってやっぱり限定される気がします。
ライフログとしての写真の役割はまだまだ大きい
それを強く感じたのが親戚の葬儀の時でした。故人の記録って生きた証のようなものですから、遺された家族にとっても写真が残っているのは心理的に救われるものだなぁと感じたわけです。しかも印刷してアルバムにしてあるということ、紙で保存してあるということが結構大事なんですよね。これは昭和の人間だからかもしれませんが。
ある年代を過ぎるとデジタルでほぼ当時の色まで完全に残せるようになりましたから、紙で見る写真の色褪せやノスタルジーはなくなっていくのかもしれませんが、それでも写真自体が持つ意味合いは変わらないのではと思います。特にちゃんとした写真作品ではなく、何気ない日常生活を記録した極々個人的な写真の方が後から見たときに不思議と心にくるものです。
少し前からのフィルムカメラの再流行やチェキの人気を見ると、リアルを簡単に残せるようになったからこそ表現や味としてのノスタルジーを写しこみたいという本能的な感覚を誰しもが持っているのかもしれませんね。デジタル化の大きな波をフィルムが超えきった感がここ数年であるので、特に個人レベルのライフログガジェットとして普遍性を持つ可能性が高いです。
メインの周りを残すように意識するようになった
そんなこんなで、イベントや結婚式などでカメラを持つときにはできるだけメインの「周辺」を撮るように心がけています。例えば親戚まわりで祖父がカメラマン役をやっていたら、カメラを構えている祖父を撮るとか。結婚式のチャペルでは少し後ろの方に座って、新郎新婦の他に両家の親戚のリアクションを撮るとか。
ちなみにこの記事のアイキャッチの写真は2004年9月にPanasonic DMC-F1で撮った写真をLuminarとPhotoshopのNikで調整したもの。灯台の横で夕陽にカメラを向けているのは祖父です。こうしてみるとカメラ構えている人って職人っぽくてかっこいいですよね。あとデジカメ黎明期の写真でも現代の技術で新たな表現にできるのが発見。F1は元々好きな写りをするカメラでしたが。Vividに設定して撮りまくってましたね。
これは映像でも同じです。少し前にPanasonicが「ワイプ撮り」機能付きビデオカメラを出したのを見て「これ誰が使うの?」「自分撮りたい?」って思った記憶がありますが、よく考えられているなと最近見直しました。自分ではなくても、例えばさっきの結婚式の例だと新郎新婦にレンズ向けながら、ワイプ用の「回転式2カメ」は親戚の席とか撮っておけば良いわけですからね。必ずしも自分だけではなくて、周辺を押さえておくという意味での2カメとしても役割はあるのだなと。
結局のところカメラマン役やっていると敢えて自分撮るのがちょっと気が引ける部分もあるので「イベントでカメラマン役をしている親戚の誰かを撮ってあげても、それを撮ってあげている自分は誰にも撮られていない」という禅問答のような状態に陥っていきますが(笑
自分自身の日常の記録としてはiPhoneがメインだがシャッター音がうるさいし下品なのが難点。
ちなみに個人的な日常記録の機材としてはiPhoneがメインになっています。ガジェットとしてivis miniも持っているのですが少しだけ使いにくいのと今のところYoutuberでもVloggerでもないので、これは仕事の記録用機材になっていますね。実際ivis mini持ち出さなくてもiPhoneで済むことが殆どなんですよね。スマホは本当に優秀になりました。
ただどうしても気に入らないのが「シャッター音」です。日本では盗撮防止の観点からシャッター音を消せないのがデフォです。Microsoftの公式アプリなどで消音機能もありますがレスポンス悪かったりと使いにくいもので。iPhone7Plus使っているんですがスピーカーがステレオで、2ヶ所から盛大に「カシヤァアアアアアアアアアアアア」って鳴るんですよね。もうね単純にうるさい。音が下品。ってかそこまでステレオにしなくてよくない?
写真撮るときって日常記録だとしても佇まいが大切なんですよ。撮る側も。一眼レフなんかシャッター音でCanonかNikonかって論争になるくらい。それが何でiPhoneはこの仕様のままなのかと。何かセンサーかディープラーニングでNGな動きを検知して撮れなくするとかできないんですかね。せめてシャッター音選べるようにしてほしい。アプリではある程度対応したのがありますが、今度は速写性に欠けるんですよね。日常の瞬間は気が付いたらすぐシャッター切れるようにしたいわけで。このあたりがスマホだけでOKとなりきらない部分。惜しい。
「撮る役の誰か」を撮る。でもやっぱり意識しないと自分は残らない。
話がそれてしまいましたが(何かiPhoneへの要望ばかり言葉数多くなってしまう)、「カメラマン役」の誰かがいたらその人を撮っておくことがいつか誰かの幸せになるかもよということ。でも自分自身はそれでも残らなかったりするから、また他の誰かに撮ってもらうか、自撮りの習慣を意識して置かないといざというときに寂しい思いをするよということ。特に家族を持ってからは。
この点、アプリのTikTokなんかはうまく自撮りを進化させたように思います。手が届く範囲とか自撮り棒で撮ることから一歩下がって、自分でも友達でもある程度全身を自然と撮るような作りになっているので。まぁこれは意識して設計されたものではないかもしれませんが。どうなんでしょうね。
個人的にはこの解決を含めてGoPro HERO7の導入を検討中です。発売から少ししてTwitterのタイムラインやYoutubeでも静止画の評価も出始めているので見極めつつ、自分を含めた家族用に考えています。多分近々買います。
後になって気付くものですが、ライフログとしての日常写真は多いに越したことないですよ。