子育て日記

食卓と団らんとテレビと議論と教育と。

実家での会食から食卓のあり方について少し考えてみた

家族団らんの風景って意外と家によって違うのかも

たまに家族親戚集まって昼食や夕食を食べたりするのですが、そういえば自宅で夫婦で食事するときや自分が小さいときの食事風景とは少し違う過ごし方かもなと思いました。

本当に小さいときの記憶はそれほどはっきりしていないのですが、一般的にはテーブルを囲んでテレビを見ながら食事するってのが普通なのではないでしょうか。今ならYoutube見ながらとか、NetflixやHuluで映画か番組見ながらってのもあるかもしれません。うちの場合(夫婦での食事の場合)は後者が多いですね。

食事のときはテレビは見ないで会話に集中する

ところが、私の実家で食事するときにはちょっと違うんです。食卓は人それぞれなので珍しいことではないのかもしれませんが、食事中は基本的にテレビは消します。音楽を流すとかもなく、ワイワイと話しながら食事するんですね。そこで近況報告したり、エピソードトークしたり、まぁ他愛もないニュースネタを交換したりと団らんを楽しむわけです。

食事自体は1時間程度で、その後に食後のコーヒーを飲みながら持ち寄ったお土産を食べます。今日はケーキをうちで持っていったので、それを食べながら。おつかいもの文化というのでしょうか。そこでまた1時間とかワイワイ話す。

それも一通り終わったら、今度はお茶です。一服というやつですかね。またそれでワイワイと話しながら1時間とか話している。

結局、今日は12時に実家に行って、帰ったのが16時頃。実に4時間。まぁ盆や正月などたまの食事で実家に行くならと考えれば滞在時間はそんなもんかと思うかもしれませんが、自宅から実家までが非常に近いのである程度頻度も多くて、そしていつ行ってもこんな感じなんです。

夕食のときも同じで、18時集合で22時解散という感じ。夜もあまりテレビつけないでただただ話していることが多い。これってもしかしたら昔は普通だったのかもしれませんが、今の生活スタイルで言うと珍しいのかもしれないなとふと思ったわけで。

食卓の場が担う役割

夕飯のあり方については家族親戚間で結構みんな重要なこととして考える環境にはありました。それぞれ仕事が忙しくなったり、私の場合だと一時期単身赴任だったこともあって、家族が揃って夕飯をとるということがあまりなくなっていた時期もあったんですね。祖父母の家もかつて二世帯住宅で、同じような事が続いたことから一つのルールとして「夕飯は家族が揃って食べる」と決めた時期があると聞いたこともあります。

特に母方の祖父母〜母世代は今は国有林になっている雫石の山奥に住んでいた時代があって、家族や学生など大勢で食卓をというのが普通だった世代です。その名残もあるのかもしれませんが、団らんの場の大切さというのは代々受け継がれてきたんだと思います。

そしてこの会話だけで進んでいく団らんの場って、コミュニケーションだったり、カウンセリングに近い場だったりするように感じます。子どもたちにとってはディスカッションの場にもなっていたのかもしれません。言葉のやり取りや話し方の練習だったり、意見が違う大人との議論だったり、様々な考え方を許容する事を知る機会だったり。教育という視点からも食事の時間が担う役割って大きいのではないでしょうか。

個人的には震災後に特に家庭というものの大切さを考え直したので、実家にも普段できるだけ顔出すようにしないとなとは感じているのですが、夫婦の間でも一緒で仕事でどれだけ忙しくても遅くなっても基本的には夕飯は一緒に食べるように心がけています。

まとめ

今回はちょっとした雑談記事でしたが、食卓の役割についてはまた考えていこうと思います。30代過ぎると仕事も思うようにできるようになっていかに稼ぐかというような楽しさにも目覚めてくるのですが、個人的には仕事か家族かの優先をつけなければならない時には家族を取ります。これができることも独立起業して個人事業主・フリーランスとしての働き方を選んだ要因の一つでもあります。

若い頃は家族一緒というのがうっとうしい時期もあるでしょうけれど、歳を取るごとにその大切さを感じるようになりました。それは例えば老後の面倒を家族に見てもらうとかそういう意図があることではなくて、結局何のために生きていくのかというような感覚です。

皆さんの食卓風景は今、どんな感じでしょうか。

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