映画

「天気の子」に思う都会育ちと地方育ちの映画鑑賞視点・楽しみ方の格差について。

新海誠監督の最新作「天気の子」を観てきました。

細かいストーリー解説等については既にネタバレ記事なども随所に見られますので割愛するとして、ここでは「映画を観る」「作品を楽しむ」ということそのものについて感じたことがありまして。

私は地方生まれ・地方育ちなので「東京という都市」を舞台とした作品を観た時の感動について「体験の格差」ってあるよなぁということなのですが、思うままにつらつらと。

※「天気の子」のみではなく「君の名は。」「シン・ゴジラ」についても記述します。ネタバレはほぼありませんがこれらの作品について少しでも情報が入るのが嫌な方はお気をつけください。

「君の名は。」と「シン・ゴジラ」における震災体験と都市体験。

これは2016年に公開された新海誠監督の「君の名は。」及び庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」を鑑賞した際にも同様のことを感じたのですが、「都会育ちと地方育ちでは映画体験自体がかなり異なってくる」んですよね。

どのような文化作品でも鑑賞する人それぞれの経験や知識を背景として解釈されるものです。このため百人いれば百通りの感想になっていくのが当たり前ですし、そもそも「どう頑張っても理解できない」という壁が誰にとってもあり得るわけです。

「君の名は。」と「シン・ゴジラ」の公開年は仕事の関係で東京に短期出張していることが多かったので、仕事後にTOHOシネマズ日本橋で観たのが初回鑑賞でした。いずれの作品も素晴らしい作品でしたので、東京でそれぞれ2回、地元に帰ってきてからそれぞれ1回観た記憶があります。

2016年時点でのインパクトとしては「君の名は。」も「シン・ゴジラ」も「都市としての東京」というものと「震災の映画表現」というものについて一定の正確性を持って物語に織り込んでいたことが大きかったんですね。「君の名は。」は更に「地方」との対比で重層化させていたわけで。

今改めてこれらの映画評をググるレベルで振り返ってみると意外なことに「震災表現に対する批評」という文脈もあったりしたようで。実際に3.11の瞬間に沿岸で被災した経験を持つ立場としては「震災から5年経ってやっとこのような作品に織り込まれて描写されるようになったんだな」という肯定的な思いと、「あの日の『if』と『その後』について描かれたことで救われた」という感覚がありました。

「もしあの日の前に帰ることができたら何人を救えるだろうか」というのは被災して大切な人や場所を失った者にとっては何年経っても脳裏から離れない問いです。また「逃れられない災害とその結果に対してどう立ち向かい生きていくのか」という問いも同様。

「君の名は。」と「シン・ゴジラ」は(少なくとも私自身にとっては)これらの問いから逃れられずにいた頭のごちゃごちゃをある程度解いてくれた作品だったと感じます。音楽や歌でもそうかもしれませんが、芸術・文化的な作品がそのテーマや言葉や描写という表現を通して人の心を救うということはあり得るもので。というか寧ろそれこそが芸術・文化の大きな意義ということも言えるのかもしれません。

「東京での生活経験」を背景としてブーストされる感動と、映画鑑賞後まで含めた「仕掛け」の大きさ。

さて、この2作品に対して「被災」という経験を通して感じたことが多かった一方で、「都市としての東京の描写」についてはある意味で「東京で暮らしている人たちが羨ましい」と感じました。これは「東京いいなぁ」という意味ではなくて「東京での生活経験を背景として理解・共感できる文脈・表現がとてつもなく多い」からです。

地方に住んでいると(田舎度合いにもよりますが)そもそも「東京」の空気感がわからなかったりするんです。私が住んでいるのは北東北ですから、中学校の修学旅行で初めて東京に行く子どもも多かったり。私自身も実際に東京に行くことが増えたのはここ6〜7年ですからほぼ30代に入ってからなんですよね。また、旅行でたまに行くことはあってもピンポイントの経験でしかないわけで。

「君の名は。」でのデートシーンだったり「シン・ゴジラ」での蒲田くんだったり他にも細かい場面を観ていくだけでも、東京での生活が経験としてある人にとっては肌感覚として「あーあるある」とか「そうくるのか!」という共感・感動・驚きに繋がりますよね。でもそのベースとなる経験がないと「もう一歩引いた視点」になってしまうこともあり得るということで。

「君の名は。」については「東京と地方の対比」が生活レベルで表現されていたので双方向性がありましたが、「シン・ゴジラ」や今回の「天気の子」については基本的に東京視点ですから、地方経験しか無い場合にどうしても削ぎ落とされている感動があるはずなんですよね。

これって「君の名は。」と「シン・ゴジラ」を東京と地元で鑑賞した時の観客の反応の差でもかなり感じたところです。一つ一つのシーンに対して漏れ聞こえてくるリアクションだとか、観終わった後に映画館を出るまでに聞こえてくる感想だとかに違いがあるんですよね。もちろん一人一人の経験についてはそれぞれ異なりますから一概には言えないわけですが。

また映画鑑賞後に映画館を出て帰るまでの町並みや景色が、東京にいる人達にとっては「映画の延長上にあるもの」だったりするわけです。「あぁここ出てたよねー」みたいな単純なものでもよいのですが、更には映画1本でも観る前と観た後で街の見え方・感じ方自体が大きく違ってくることってありますよね。

これこそ作品の力だったり映画鑑賞の醍醐味だったりもするわけです。そしてこの「あ、自分自身の感覚に何か変化があるぞ」という感動は(この2作品の場合)舞台となる「東京」にいるからこそ感じられるギフトなんですよね。

そういう意味で当時「君の名は。」「シン・ゴジラ」を東京の映画館で鑑賞した帰りに「羨ましい」と感じたのです。改めて「東京という都市」を眺めながら「この東京という都市で暮らしている人たちはこの映画を通してこんな新鮮な経験をしているのか」という感慨。

その後に地元の映画館でも再度観たわけですけれど、作品自体の素晴らしさや感動は変わらずとも「背景としての生活経験や映画鑑賞後の都市体験まで含めた広義の『仕掛け』」はそこには無いわけで。もちろん「地方都市を舞台とした作品」であればこの逆転現象が起こり得るわけですから、「作品によるよね」というのは当然ですけれど。

例えば海外作品などを観る際には「海外ならではの前提知識がないとわからないこと」が多くあるのは当然ですよね。ジョーク1つ取ってもそうですし、歴史的な作品の一節をもじったような表現が使われているような場合にはその元となる作品自体を知らなければ面白みも全くわからないという。これが「東京という都市」自体を仕掛けとした作品でも同じということです。

いずれこれまで当たり前のように感じていた様々な作品の感想や感動が、もしかしたらその背景を知らなかったり経験が不足していることによって十分に享受できていなかったのではないかなということに改めて気付かされたというのが正直なところでした。

「天気の子」における「東京」と「仕掛け」と「感動」と。

今回の「天気の子」については、この「東京という都市」を肌感覚として知っているかどうかによって、作品から受ける感動に「君の名は。」よりも大きな差が出てくる可能性がありそうだなと感じています。

これは「君の名は。」が「東京と地方」の対比も含めて「仕掛け」にされていたのに対し、「天気の子」では「東京」のみが「仕掛け」となっているからです。主人公の帆高は離島の出身ですが、映画の中では離島での生活についての描写はほぼありません。背景を想像できる描写は仕組まれていますが、直接的な表現は非常に限られています。

もしかしたら前作の「君の名は。」に対する様々な批評があることに対して、新海誠監督が今作品では敢えて「東京」というものに絞って戦おうとしたのかなとも想像してしまいます。そのくらい「天気の子」では「東京という都市」に「天気」というレイヤーを重ねながら驚くばかりの繊細な表現で「都市の風景」の機微を浮かび上がらせているのです。

そしてこの表現の総体はおそらく東京に暮らす経験を背景として持っている人にとっては、とてつもなく感動がブーストされるものなのではないかなと。

更に後半の「仕掛け」についても同様です。

おそらく新海誠監督が本作品で観客に挑戦してきたと考えられる「決断」とそれがもたらす「結果」について「どれだけ肌感覚を持って驚くことができるのか」という点で、観客の経験的背景が心の揺れ方に大きく影響してくる可能性が高いんですね。

今日、地元の映画館では観客の多くが小中高校生くらいの若者でした。年齢によっても経験に幅がありますから、シリアスな部分以外でも細かく仕込まれているネタに対して笑ったりできるかどうかという部分も変わってきそうではあります。ただそれよりも「この子たちは東京を知っているのだろうか」ということを考えてしまったりするのです。

自分が小さい頃は東京なんてほとんど知らなかったわけですから(今でも同じようなものですが)、もしかしたらこの物語全体の「仕掛け」を感じることについて、地方では想像以上に東京と格差があるのではないかと考えさせられたわけで。

繰り返しますが私自身も地方に生きているので「あぁここ実際に知っていたらもっと楽しめたのだろうなぁ」と感じる部分が結構ありました。都市の再現度が高いだけに「ここまで描写しているのか!」ということが肌身でわからないんですよね。完全なフィクションで描かれている町並みと、映画館を一歩出たらそのままそこにあるものとして描かれている町並みでは感動の度合いがまた変わってくるのです。

仮に「子どもの教育」というものを考えた場合でも、どんな作品でもその背景知識まで含めて体験・経験とともに教えていく必要があるのだろうなと。こう考えると東京と地方における機会格差って(東京を舞台とする学ぶべき作品が増えれば増えるほど)大きくなっていきますよね。

新海誠監督の作品が今後どのような広がりを見せていくのかは未知数ですが、この「東京という都市」を舞台にする可能性が高いのかなぁと思うと私自身もっと「都市としての東京」を知っていかないと十分な感動ができないのかもしれません。それほどに素晴らしく美しい表現なんですよ。地方住まいだと費用的にもなかなか難しいのが現実なのですけれど、仕事と兼ねて少しでも足を運ぶようにしていきたいなと感じています。

まとめ

ということで「天気の子」を通して感じた映画鑑賞という体験自体の考察でした。

もしここまで読んで頂いてまだ本作を観ていない方がいれば、是非観てみてください。「仕掛け」としての驚き・感動は個人的には「君の名は。」の方が大きかったように感じますが、物語自体ちゃんと面白いですし、都市や天気の描写についてはどのシーンを切り出しても2016年当時から3年経っているだけに更に進化していて流石の一言です。

新海誠作品らしい大小様々な「仕掛け」についても考察する余地がちゃんと残されていたりして、鑑賞後に語ったり議論できるようにもなっているという意味でもおすすめの作品です。ではまた。

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