起業・フリーランス

就職→転職→フリーランスに至るまでの心境と環境の変化とキャリアについての考え方

はじめに

キャリアの積み方には様々なルートがありますよね。

これから起業したり、フリーランスとして生きていきたいなと考えているあなたへ、参考になるかどうか私の場合の起業までのルートと、その過程で思うところをまとめてみます。

まずこの記事を書いている2018年9月現在までは以下の流れでキャリアを積んできました。

1)一般企業(印刷会社):約5年半

↓ 転職

2)一般企業(広告会社):約2年

↓ 独立・起業

3)個人事業主/フリーランス:現在5年目

特に華々しいものではないのですが、その分どちらかというと現実的な事例として捉えていただけるのかなと。

1)一般企業(印刷会社)

団塊世代のノウハウを吸収するために

最初に勤めたのは地域に根ざした歴史ある印刷会社です。

営業・企画を5年半ほど。総じて良い経験を積ませていただきました。

企画・制作デザインの分野が好きだったことも動機にありますが、当時は団塊世代の大量退職が叫ばれていた頃で、私は「大量の経験を持っている団塊世代の先輩方がいなくなる前にそのノウハウや感覚をできるだけ広い業界で学びたい」と若いなりに考えていました。

地方企業だと都会ほど選択肢があるわけではないのですが、その中で「新人でも企業のトップと直接話せるのは銀行と印刷会社」と聞いてなるほどと思ったわけです。ちなみにここで言う「企業」は中小企業レベルの規模感で考えていました。

一般的にはB to Bの営業でも企画でも対応窓口は総務部門だったり担当部署であって、企業のトップと話せる機会は基本的にありません。しかし、銀行と印刷会社だけはその機会がありうると。名刺でも企業パンフでも、トップと直接話さなければわからない意図があるからです。実際には(特に今の時代は)これに限らないのでしょうけれど、とにかく納得したので地元で印刷会社を希望したわけです。

ちなみに方向性が決まっていたので受けたのはこの1社だけで、無事採用されました。

働き方はごく一般的な会社員

基本スーツにネクタイで、毎朝朝礼があって、社内での休憩は10時と12時と15時に入るようなごく一般的な会社です。印刷会社は工場併設の製造業なので、休憩時間もきっちり決まっています。営業は外回りなのであまり関係なかったですが。

週一の営業会議は就業時間後に2時間程度。土日は基本的に休み。誕生日には有給がもらえる。ただし普段は有給なんて使うことはできない雰囲気で、当時は誕生日休暇以外は使おうと考えたこともありませんでした。転職の際にも40日ほどそのまま残して辞めた記憶があります。

東日本大震災が変えたもの

転職のきっかけになったのは2011年3月11日の東日本大震災(岩手では東日本大震災津波が正式表記)です。

当時私が担当していたエリアの関係で、その日は宮城県南三陸町で被災しました。色々なタイミングが少しでもズレれば私も流されていたような状況の中、何の因果か命は助かってしまったのですが(この感覚はどうしても拭えないものなので敢えてこの書き方にしています)。

あの日の夜、見も知らずの私を泊めていただいたお宅で止まない余震に耐えて朝を待ちながら「もしこのまま生き延びることができたら、ふるさとを次の世代につなぐことをライフワークにしよう」と心に決めました。

その後、約1年半に渡って内陸の勤め先から営業車と自家用車で沿岸にほぼ毎日通い続け、復旧・復興を目指す被災地で1つのピースとしてもがき続けることになります。ちなみに震災の少し前に結婚していて、平日は単身赴任でアパートに暮らしていましたのでずっと週末婚状態でした。

もどかしい思いが転職の決断へ

その中で、「自分が力になれる範囲」のようなものが「所属する会社に定義されてしまう」という感覚に陥ります。社会人になるとどうしても会社とパーソナリティがセットにされがちで、基本的には「○○会社の◯◯さん」と認識されます。このため、自分自身が印刷会社ができることの範疇を超えて力になれないという無力感ともどかしさが出てきたわけです。

もちろん、実際はそうではないかもしれません。やろうと思えばできることはもっとあっただろうし、今の自分の経験を持ってあの日に戻ればできることは沢山あります。しかし、社会に出て、その会社しか知らず、完全な仕事人間だった自分には確かにそのように感じられたのです。

そこで転職を考え始めます。条件は3つ。

a)故郷に資するためにもっと川上から関われる業界。

b)今までの経験を糧にキャリアをステップアップできる業界。

c)夫婦で暮らすために盛岡で働けること。

震災の翌年にちょうどこの条件に合う話を頂いて転職することにしました。

2)一般企業(広告会社)

川上と考えていた広告業界へ

転職先は広告会社。

広告業界全体を俯瞰すると、印刷会社は川下に近く、広告会社は川上に近いイメージです。印刷会社でも企画やWEBまで含めて手がけており、必ずしも紙媒体のみではないのですが、それでも広い意味での「企画」という大きな流れの中ではアウトプットの選択肢としてのわずか一部分です。全国規模の印刷会社だとまた違うでしょうけれど。

働き方はフレックスタイム制。コアタイム以外は基本自由ですが一応9時とかには出社する感じ。朝礼は無し。週一の営業会議は就業時間内の朝に1時間きっかり。打ち合わせは「10分後に15分だけ頂戴」といったもの。

さて、この広告会社での経験がそれ以降の私の仕事に対する考え方、企画的思考、生き方の基準に大きく影響を与えることになります。

まったく甘くはなかったが学び続ける日々だった

転職当初、キャリアとしてはステップアップと考えていましたが、実際の所はそんな生ぬるいものではありませんでした。業界用語から思考回路まで、それまでの経験がほぼ役に立たないレベルで打ちのめされます。20代後半でこれほど怒鳴られるものなのかというくらいしごかれました。おかげで最短で吸収できたわけですが。

私生活とのバランスはと言えば、夫婦で生活できるようにはなったものの入社当日から4連続で飲み会で午前様。それ以降も24時まで仕事して、それから飲みに行って、午前2時に事務所に戻って仕事して、朝方帰って、シャワー浴びて30分〜1時間ほど仮眠し、出社する。という生活になっていきます。

それでも、改めて復興に関わる大きな仕事に携わることができたり、これまでの自分には無い企画的視点や働き方の視点をある意味で自由さとともに身に付けていくことができたりと、この時期に吸収できたことはとてつもなく大きく有意義なものでした。

新たに浮かんできた働き方・生き方への思いと独立

一方で、川上の大きな仕事をすることで見えてくるものもあります。地域密着型で名刺一つから大切にしていた印刷会社と異なり、広告会社はもっと大胆に大きな予算を動かすことから大企業や国・県レベルの動きを最優先します。

少人数で大きな予算を達成していく必要があることからも、どうしても優先順位が「でかいもの」優先で「優先順位が低い小さな仕事は手をかけている余裕がない」ということになりがちです。仕事に大小はないと言ったとしても、経営的・利益的な仕組みからそうなるわけです。

これはある意味で当たり前なことでもあって、広告会社と印刷会社に限らず小規模事業者や個人事業者に至るまで様々なグラデーションで地域経済が回っており、それぞれの領域と仕事の規模感に合わせて適切な役割を果たしていくのがこの社会ということです。

印刷会社にしかできないこともあれば、広告会社にしかできないこともある。その組み合わせが「業界」としてバランスを取っているということですね。

この前提に立った上で、転職して数ヶ月経った頃に私の中にある思いが浮かんできます。

広告会社的な企画の知識と視点を持って、

印刷会社的な地域密着型の貢献をしていきたい。

(細かいことを言えば他にも様々な状況や条件の中で総合的に考えた結果でもありますが)この思いを最優先に実現させる方法を整理して独立・起業・個人事業主・フリーランスといったワードにたどり着きました。

独立に向けた達成基準と期限

ただし闇雲に独立するのではなく、しっかりとしたスキルの裏付けを持っていることを証明するハードルとして自分の中に達成基準と期限を決めました。

a)現職で自分が一定以上の役割を持って企画に関わった、または書き上げた企画書で勝ち取った仕事の合計予算が、ある目標金額を超えること。(具体的金額は割愛しますが数億といった単位です)

b)期限として「30歳のうちに起業」すること。

c)起業用の資金を貯めること。

実は既に29歳で、ギリギリ31歳の誕生日を迎える前までの実質1年程度がリミットという状態でした。

期限ギリギリでの実現

中途半端なスキルで独立しても通用しないと自分に言い聞かせ、朝から夜まで担当業務をこなした後に夜中までは社内やグループ全体の共有ナレッジ(知識)をイントラネット上で自分なりに研究し続けました。

学べることは学んで、企画的なスキルも吸収し続け、結果として設定した期限までに基準を達成したので独立起業することにしました。

開業届けを出したのはあと数日で31歳になろうとする月の初めです。

3)個人事業主/フリーランス

自分の責任で全て決めるということ

個人事業主の開業届を出して、晴れてフリーランス生活が始まったわけです。個人名でも良かったのですが、後々の展開を考えて屋号を付けました。自宅の1部屋を事務所としつつ、その他にも独立の際に助けて頂いた会社には今に至るまでデスクを置かせてもらっています。これは本当に感謝しています。仕事で返さないとと常々思いつつ。

働き方はフリーランス。良くも悪くも自分次第なので、1ヶ月休もうと思えば休めるし、1ヶ月連勤で働き続けることもできます。目標としては年度ごとにテーマや分野を決めて取り組んできたものの、結局最初の2〜3年は殆ど休み無しに働いていたような気がします。

4年目に入る頃からは特に意識的に自分の立ち位置や働き方を変えてきたのですが、これは長くなりそうなのでまた別の記事にします。

ちなみにフリーランスと言っても肩書は個人事業主の代表です。確定申告を始めとした経理などについてもまずは自分で実践的に学んでいきました。独立して自分でやってみることでわかることってとても多くて、結局の所ずっと何かしら新しいフィールドで毎年学び続けている気がします。Wordpressやサイト構築も一緒ですよね。

これからの展開とキャリアの行方

独立5年目に入り、そろそろここまで手広くやってきた事業を整理して、次の5年について考える段階に来ています。例えば法人化するのか、コンテンツやプロダクトを開発するのか。これまでクライアントのお手伝いのために活用してきた企画的視点について、一度自分の事業に向けてみて果たして何を生み出せるのかを試したいと考えているところです。

これまで人と仕事にも恵まれて5年は生存しましたが、世の中が変わるスピードはこの瞬間も速まり続けています。経営的な基盤もある程度できましたが次の一手を模索しながら打ち続けることが必要です。

まとめ

さて、ここまで少し長くなってしまいましたが私が社会人になってから今に至るまでのキャリアについて大まかに整理してみました。改めて振り返ると「何か自分のやりたいこと、思いを叶えるために」次のキャリアを目指したんだなと再認識しました。

実は最初の会社に勤めたときには「この会社で勤め上げよう」と考えていました。東日本大震災で被災しなければこの考え方は変わっていなかったかもしれません。結果的に転職して、視野が広がり、独立して、今に至る道筋につながったことについては肯定的に捉えています。

また補足として転職の際も起業の際も不労期間は作りませんでした。月末に退職して、月始めから働き始める形です。転職の際に一度休息期間を設けてゆっくり考えることも必要だと思いますが、自分の場合は期間を空けると性格的にダレそうだなと感じたことと、1日でも早く次のステージで積みたいと考えたことが理由です。

3パターンの少しずつ異なる働き方を経験した上で、「会社員vsフリーランス」的な二元論の考え方はしなくなりました。最初の2つの職場を経験しなければ身に付けることができなかったスキルセットがフリーランスとして働く今の力になっています。

会社員だろうがフリーランスだろうがメリットとデメリットはありますし、職場によっても違いますし、人によっても違います。どのステージに立ってもキャリアを積むことは可能です。

もしこの記事を読んでくださって起業を考えているあなたがまだ学生なら、取り敢えずどこかに所属してみることをおすすめします。3年勤めよとは言いませんが、先輩経営者が組み上げた企業がどのような仕組みで動いているのかを内部から目に焼き付けておくことは糧になります。いつかあなたも経営者になるのですから。

また、あなたがどこかの企業に勤めている(いた)経験者であるなら、独立起業に向けた前向きな達成基準を期限付きで決めてみてはいかがでしょうか。「仕事を辞める」ということは、自分に対してもマイナス感情を持ってしまいがちです。どうせならキャリアアップと捉えて「何かを達成できたから次に行く」ということにしてしまいましょう。それはあなたが飛び立つ企業に残すことができる成果としての置き土産でもあります。

人生なんとかなるものです。前向きにいきましょう。

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