働き方

東日本大震災津波から8年

東日本大震災の瞬間

2011年3月11日の東日本大震災(岩手県では「東日本大震災津波」と呼称します)から今日で8年。私自身、あの震災の瞬間に三陸沿岸を当時の会社の営業車で走っていて被災しました。冒頭のアイキャッチはそのまだ揺れているときにデジカメで撮影した動画からの切り出しです。※今回の記事には東日本大震災後に撮影した写真が含まれます。

東日本大震災と働き方・生き方についての価値観の変化

当日のちょっとしたタイミングがどこかで変わっていればあの津波から逃げることはできていない状況でした。本当に偶然、沿岸道路の中でも標高が高い場所を走っている時に地面が揺れて車が跳ね出したんですね。そこで車を近くの高台の団地に方向転換して停車して、車の中にいるのも危険に感じるような揺れだったのでデジカメで動画を撮りながら飛び出したわけで。ちょうど車を停めた脇にあった家から出てきた方に声掛けして、敷地内に駐車させていただきました。その後の津波で沿岸道は瓦礫の山となり、架かっていたいくつかの橋もほぼ全て流されたので移動できなくなり、偶然出会ったそのお宅に一晩宿泊させていただくことに。本当に長い夜でした。

東日本大震災の翌朝2011年3月12日は雪が積もっていました(於:宮城県南三陸町、2011.3.12)

 

その頃は結婚してまだ数ヶ月で私は自宅から100km離れて単身赴任暮らし。自宅では嫁さんが待っているはずだけれど安否もわからず、でも被災地では発電所も流された状況で連絡手段もなくなってしまった状態。そこで震災の翌日、マイナス4度の雪降る朝に山道を抜けて(当時勤めていた会社と単身赴任先で借りていたアポートを経由して)百数十キロを走って今の自宅に帰宅。

幸いなことに内陸にいる家族や親戚は無事だったものの、当時担当していた沿岸の仕事関係でお世話になっていた方々の殆どが被災して、親交のあった方々も数多く津波の被害に遭いました。語り始めれば色々とあるのですけれど、震災直後から数年は「どうして自分が生き残ったのだろう」と悩むことも多かったです。

宮城県南三陸町歌津震災直前に車で走っていた地区(於:宮城県南三陸町歌津、2011.3.23)

 

自分自身の働き方や生き方の優先順位もあの震災がきっかけで大きく変わりました。それまでは社会人になって初めて入った地元企業でそのまま定年まで勤め上げようと考えていたのですが、キャリアや働き方についてゼロから考え直して少しでも家族と一緒にいる時間を長くしようと自宅の近くの企業に転職。これは自分が携わる仕事のフィールド自体を風上にステップアップするという意図もありました。転職後の期間はそれほど長くなかなったのですが学べるノウハウは短期間で獲得して30歳で独立。それから数えてももう5年なんですね。

最初の転職後の働き方は今で言う「ブラック」的な面も一部ありましたが、自分なりの目標数値を決めて短期間でスキルセットを得ることができたので結果的には良い決断だったと感じています。独立後の5年間は一人親方ですが全事業年度黒字で締められていますし、家族との時間も大切にできています。そして今年は2月に第1子誕生。震災直後は子どもを作ること自体についても色々と考えた時期がありましたが、やっとここまで来れたのかなと感じたり。

震災から8年経って考え方の変化もありますけれど基本的には「嫁さん第一」で「今日突然の天災で命を失うこともある」という大前提を判断基準にしています。これが子どもが産まれたことによって「この子のために何ができるのか」ということが加わったわけで。今は育休生活中ですが、その後に何をすべきかについては再考中。今の仕事もある程度安定しているものの、5年で十分な結果は出せたので次の段階や新しい挑戦に進みたいなと。

震災から8年経って変化するテーマ、変わらないミッション

東北物産展被災後に立ち上がった事業者さんと大阪へ(於:阪急うめだ本店、2015.11.18)

 

震災以降は故郷の復興を大きなテーマとして様々な仕事に携わってきました。震災から8年経った今も被災地にはまだ復興途上と言うべき状況が残っていますが、私自身の仕事や働き方としてのテーマは幾分変化しつつあります。震災から数年経つと復旧というフェーズは過ぎて復興というフェーズに進みます。その後、エリアや事業者によってまちまちではありますが少しずつ事業再開して通常営業に戻っていくわけです。

もちろんその中には震災以前の売上にまで戻らない企業もあったり、反対に震災前よりも大きく売上を伸ばしている企業もありますので一概には言えないという前提はあります。あまりにも被災範囲が広くて被災者数が多いので一般化して語ることができないのも東日本大震災を考察するときに注意しなければならないことですね。たとえ自分自身が被災した立場だとしても「被災者」という言葉の中に被災度合いのグラデーションがありますから、「いつ」「誰が」「どの立場で」「誰に向けて」語るのかに配慮しなければならないということ。

このような語り方の難しさはありつつ、「震災の瞬間に沿岸で被災して」「当時数年間担当してきたエリアが町ごと流され」「その後1年間は被災地を走り回り」「もっと風上から復興に携わりたいと転職し」「さらに働き方や生き方を考えるために独立した」立場として、自分にとって「復興支援」という視点からの働き方やテーマ設定は変わりつつあるのかなと最近感じています。というか今振り返って見ると独立後の5年間で「携わった仕事の色が変わってきている」という言い方のほうが近いかもしれません。

特にこの1〜2年で「復興支援」を名目とした仕事の割合は随分と減りました。広義では復興の範疇に入れられるものもありますがそれだと地域振興が主体なだけに「全部」とも捉えられてしまうので、どちらかというと「通常業務」のニュアンスのものが中心になってきていると言ったらよいでしょうか。震災によって「日常」と「非日常」が逆転してしまったものが、やっと私が携わる業務範囲では「普通」に戻りつつあると言えるのかもしれません。

もちろん「戻る」という言葉が適切かどうかという話もありますし、そもそも被災した個人の視点では震災前の日常は決して戻らないので、あくまで「依頼を受ける仕事の内容」という切り口でのみとなりますがここでは細かい議論はおいておきます。

2019年2月に第1子誕生2019年2月に第1子誕生

 

さて、ここから5年間の自分自身のテーマは「復興支援」の次のフェーズと考えています。重要なのは何よりも「子どもが産まれた」ということ。この子のためにどうやって次の時代を作っていくのかについて、自分ができることが何かを考えていきたいなと。

ここまで書いてきて気づいたのですが、次の時代への課題意識という意味では独立時に設定した「故郷(ふるさと)を、未来へ。」というミッションは変わらず生き続けますね。「復興」のみに限らない普遍的な視野になっていくという意味で。

まとめ

人ひとりができることや手が届く範囲って限られていますし、1日24時間しか持っていない中で仕事と家庭にどう振り分けていくかなどについては優先順位を決めていかなければならないという現実もあります。自己実現のために仕事に邁進するというのも生き方、家族と一緒にいられる時間を最大化するというのも生き方です。どちらが良いという答えはありませんけれど、自分自身がどちらを優先したいのか、どう生きていきたいのかを決めることはできます。

個人的には東日本大震災をきっかけに人生観が変わりました。生き残るために変えざるを得なかったのかもしれませんが。こうやってあの震災を振り返って記事にすることはそれほど多くはないかもしれませんが、「残す」という意味ではたまにまとめるのも良いかもしれませんね。

あの規模の震災を経験して、色々なものをリセットせざるを得なくなって、それでも転職したり独立したりしながら地方都市で家族を持って生きている自分のような人間もいます。震災の夜のことをたまに思い出すのですが、自分の想像を大きく超えることに遭って絶望に近い状況の中で「あぁ、これからどうすっかな」と不思議と腹を括った瞬間があったんですね。「震災なんかに負けてられんな」とか「ここが底ならあとは上るだけか」みたいな。こういう「スイッチが突然切り替わってしまう」というのはもしかしたら自己防衛システムとして備わっているのかもしれません。

いずれあの震災から8年、何とかここまで来ましたので、ここからもう少し先まで行ってみたいと考えています。経験した記憶は消えないのですが、その後の記憶を積み上げていくことで肯定化したり辛さを薄めていくことは可能です。「時間が解決することもある」という言い方もありますけれど生きているだけでも経験や記憶は少しずつ上書きされていくということなのかもしれませんね。

人生なんとかなるものです。

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