FUJIPET 35

シャッターを切るように文章を書きたい。フィルムカメラの空気感を確かめながら、改めてそんな思いを。

コンテンツを作ることにこなれていくこととそこから生み出される個人的な楽しさは必ずしも比例しないもので。

記事を書くことにこなれてくると自分なりの「型」ができてきて(といっても大抵はどくじせいがあるものということではなくて皆落ち着く所に落ち着いているのだと思うけれど)、さらに色々なノウハウやらセオリーやらも入ってくる中で良い意味では「うまく回す方法」みたいなのが見えてくる。

でも同時に本当に自分がクラウドに残したいものって何なんだろうと振り返って足跡を確認してから行先を眺めて見たりもする。

インターネットの原体験が懐古主義的な色合いを持っていつまでも追いかけてくる。

1980年代生まれの自分にとってはインターネットの原体験って結構アンダーグラウンドなイメージに紐付いていて、それは何かしらの怪しいサイトを見るとかそういう次元ではなくて「そもそもインターネット自体が得体の知れないもの」というイメージがあったわけ。

相手が誰だかもわからない日本中、世界中の別などこか誰かと電子的な世界で文字や画像を通してほぼオンタイムにやり取りできるという背徳感を帯びた雲の上の世界のようなもの。しかもオンタイムって言っても手紙とかと比較しての話なので現代のリアルタイム感とはまた違った時間感覚。

その中で、主にはYahooのウェブディレクトリにおけるジオシティーズの個人HPのような居場所や町ができていき、今よりもっと匿名性がありながらある面では心理的距離が近い誰かとやりとりするような(ペンネームで手紙やりとりする感覚に近い)場所としてのインターネットがそこにはあったように思う。この段階では個人の稼ぎはインプレッションに紐づいているわけではなくて、極々専門的な情報を発信できていた一部の人たちが雑誌記事の仕事を得たりする形で対価を生んだ程度だったはずだ。

そんな中でGoogleは「インターネットの全てを目次化する」という新たな思想による検索エンジンを稼働させ、世界はまた変わっていく。ここからが「ググる」という言葉が生まれ広がっていく時代。サイトそのものの価値をまさに一つの「建物」として皆が評価しながらその家主や建物に付けるポスター・看板(=広告バナー)に対価を支払う方法論に加えて、広告のあり方もさらに大きく変わっていくことになる。

「家」を作る楽しさから「部屋」の見栄えの競争にシフトしてからあの頃の自己満足的道楽は薄らいでいった。

ディレクトリ型におけるいわば「玄関」と言う意味での「ホームページ(サイトのトップページ)」リストの重要性は多少薄れていき、その中の一つ一つの情報・コンテンツとしての「部屋」の重要性に応じて検索結果が弾き出され、ユーザーは直接その「部屋」に土足で踏み入れることができるようになった。そこでは家の外観よりも部屋のしつらえのカタログとして、インプレッションとエンゲージメントが生まれていく。

個人サイトは新たに生まれたブログシステムと共存しながら、情報発信や相互交流の場としてさらに複雑な網となって世界中に広がっていった。このあたりでもまだ個々人と「インターネットで稼ぐ」はそれほど密接に繋がっていたわけではなかった。あくまで自分の作品や感性の発表の場としての意味合いが強くて、その報酬はアクセス数やコメント数やサイト・ブログランキング。これは言ってみれば「単なる数値」で、ある面ではゲームのスコア競争のようなイメージで皆上位に上がることを目指していた。

それが気がついたらどうだ。いつの間にか個々人が比較的簡単にリアルマネーを稼げるようになって、それに伴ってそれまで企業レベルでワイワイやっていた検索上位競争が一般に降りてくる。一個人でもうまくやればネットだけで稼げる仕組みがオープンになったことで、「サイト・ブログ=稼ぐための手段」というのが普通になってしまった。今やSNSだろうがサイトだろうがブログだろうが同じで、「いかに儲けるか」の話とノウハウばかりがもてはやされる一面がある。

叡智のアーカイブとしての情報価値は上がり続けているのかもしれないが。

もちろんこれにはメリットもあって、それはネット世界全体の「発信される情報の質」が底上げされること。価値を評価されないネット上のテキストは検索には乗らなくなる結果、誰にも気付かれなくなる。その評価軸が「有益な情報」ということであれば、皆できるだけ価値の高い記事を書こうとするはずということだ。

ある情報・主張にはそのソース・引用元をつけることであったり、1本の記事についてもしっかりとわかりやすい構成になっていることなどなど。Googleの検索エンジンの評価軸は方針は開示されているものの具体的な計算式はブラックボックスであるから、企業でも個人でも(既に少し昔の言葉のようにも思えるが)SEO対策の一環として社会的に有益な記事を書いてクリックされようと必死になる。それは各自の金銭的な豊かさに直結すると考えられるとさらに強化される。

それで個々人が稼いで生きていける選択肢が増え続けている現代は恵まれている。でも「インターネット」というよく考えると驚異的で不思議な雲の上の世界における本来の「楽しさ」はもう少し違う場所にあったのではないか。とたまに考えてしまう。今でもあの雰囲気が残っている場所もあるけれど、必ずしも「稼ぐ」に直結しなくても良い緩い感覚でニッチなグループがそれぞれ喧嘩せずにワイワイやるのも必要なはずだ。

古いカメラでシャッターを切りながら考えるのは、自分たちが豊かになったのかどうかということ。

日々のテクノロジーの進化は明白で、我々の生活が豊かにエキサイティングになり続けていることは確かだ。でもたまにふと懐かしくなる。1990年代のインターネットの空気感が。それを確かめるように古いカメラで景色を撮り歩いてみたりする。この感覚がただの懐古主義ではないはずだと自分に言い聞かせながら。

現像された淡い写真を見ながら何となく思うのが、今よりはもっとおおらかだったのかもしれないなということ(例外は何にでもある)。年齢的なものもあるだろうけれど、かつては同じ社会に属していても見えていないものがたくさんあって、しかしだからこそ幸せだった面もあったのかもしれない。それが時代が変わり、「世界中の比較対象」がネットの進化で顕在化して、嫌が応にもその評価軸に巻き込まれる。

しかも誰しもが「評価する側」にもなりうる。議論の場がオープンになったといえば聞こえはいいが、必要以上の悪意の目が増えたことも確かだ。その悪意の根本にあるのは「比較されて自分の位置がより明確に見えてしまったこと」だとしたら、悪意を向けている本人も辛いだろうし、どうやったって全員が一位にはなれないから評価軸としてわかりやすい「稼ぎ」あたりが注目されがちなのも理解できる。テレビのバラエティも「年収いくら」って話ばかりで飽き飽きだが、それだけみんな他人と自分の位置付けが気になるのであればイコール「自己満足できるほど豊かじゃない」とも言えるのかもしれない。

まとめとして

写真を趣味にしているとたとえどんなカメラを手にしていてもそれだけで楽しいものだ。特にフィルムカメラのリズム感は忘れそうになっている何かを思い出させてくれる気がする。写真は自分と被写体の間のちょっとした儀式見たいなもので、息を吐くようにとても自然な行動だ。

同じように趣味として記事を書くのもこんな感覚とスタンスでいたいなぁと改めて考える。このサイトはいわゆる雑記ブログだから。たとえ1000人に読まれなくても、インターネットの海から流れ着いたどこかの誰かに少しだけ何かを感じてもらえたら嬉しいじゃないか。そんなおおらかな懐かしい雰囲気で、気楽に永く自分自身も楽しんでいきたい。

シャッターを切るようにね。

Translate »