昔の写真を見直しながらふと思ったことがあったので。
「写真」そのものへの欲求。
自分もそうなのですが、趣味で写真撮るのが好きな層って特別誰かに見せるものでなくても写真撮りますよね。コンテストに出すとか、作品として発表するとか、何かの素材で使うとか、必ずしもそのような「二次的な目的」がないというか。あくまで「写真を撮りたい!」という欲求があるように思うのです。自分で見返すだけでも満足だったり。
そして写真って自分の記憶と強く結びついていますよね。シャッターを押した瞬間の、なぜ撮ろうと思ったのかという感覚だとか、その時の雰囲気や光や匂いや空気感だとか。何年前の何気ない写真でも、画像として「見る」だけで周辺情報が思い出されるわけです。特に誰かに自分を撮ってもらった写真よりも、自分自身がシャッターを押した写真の方がこの傾向が強い。
「一人称」としての「写真」という行為。
すると自分自身が1枚の写真を通して感じるものの感覚的な範囲って、自分自身が最大になるわけです。写真に写っているもの以外の多くの情報が記憶と結び付けられているからです。つまり「写真」という行為って、どこまでも一人称的なものなのではないかということ。さらに見かけの写真そのものよりも、周辺情報の方が大切なのかもしれないということ。
もちろん誰かに見せる写真だとか、記録写真だとか、作品としての魅力を持った写真だとか、側面は様々です。けれど「その瞬間に感動を覚えた全て」を再生できるのは撮影者本人だけです。もしかしたら将来的に周辺情報まで記録・再生できる技術が開発されるかもしれませんが、それでも感覚的な一人称の絶対性というか優位性は変わりません。
このあたりが「写真そのものが好き」な根っこになるのかなぁと思ったわけです。ごく個人的に感動した記憶の補助としての写真。それを見返すことで想起される感動だとか心地よさだとか。日常写真に魅力を感じるのも同じようなことで。
ちなみに写真を見るのが他人だとしても何かしらの近い感動を覚えるのだとしたら、そこには共通に近い経験や記憶が紐付けられているということなのでしょうね。写真がトリガーになるということだけを捉えれば、記憶は必ずしも共通性を持つ必要もないかもしれません。
おわりに
さて、冒頭のアイキャッチは中学2年〜大学3年まで住んでいた実家の自室です。EXIFによると2005年9月9日12時11分41秒、PanasonicのFX8で撮った写真。カーテンが初秋の風を包むように膨らんで、網目から溢れる光に小さな感動を覚えてシャッターを切ったものです。
13年前の1枚でも写真を見るだけでこの瞬間の風の匂いや光の粒が思い出されます。不思議なもので、これに合わせて小中高校の教室でも同じようなことがあったなぁという記憶も想起されます。
小学校の理科室だったか、教室用の大きなカーテンが風で膨らんで、教室にいる生徒みんなで「わぁ」と声を上げたことがあるような。高校の授業中だったか自習中だったか、机に突っ伏して寝ている同級生の奥で同じように膨らんだカーテンが大きく波打ちながら揺れていたことがあるような。
さらに「教室の窓」という結びつきで、中学校1年の時に近視で初めて(または度を合わせて買い直したときだったか)メガネを掛けて教室の窓から校庭を挟んだ向かいの山を見たときの記憶も。木の葉1枚1枚が風に揺れているのがはっきりと見えた瞬間の感動と光景が思い起こされます。20年以上も前の話です。
きっかけはたった1枚の何気ない日常の写真です。記憶って不思議だなぁと感じると同時に、「写真」という行為の意味について考えてしまいます。「一人称」の記憶のトリガーとしての写真行為と言えばよいでしょうか。歳とって機材も色々と揃えられるようになってくると機材沼にハマって忘れがちなのですが、本来の写真の楽しさってこのあたりにあるはずで、忘れないようにしたいものです。